2014年10月12日

祝福への道

今回は、第21回日本福音宣教会、全国聖会のレポートより、聖書キリスト教会会長牧師、東京神学校校長の尾山令仁先生のメッセージをお載せいたします。

今日は御言葉を行うことについて学びたいと思います。聖書はマタイ7章24節から27節です。
「だから、わたしのこれらの言葉を聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。・・・」


このことが本当に分かっているかが問題です。知っているということと、それが本当に自分のものになっているかは別の事だからです。
イエス様の言っていることを聞いて、それを行うことが大切なのです。
聖書のお言葉には三つのタイプがあります。叙述、宣言、命令です。
叙述とはいつ、だれが、どこで何をしたのかということを述べる文書です。「イエス様はひとり寂しい所に行って祈られた」というようにです。
その次に宣言。「神は愛である」というようなお言葉です。
最後に命令です。聖書には「いつも喜んでいなさい」とあります。命令ですから従わなければなりません。でも私達は従わない。そしてそのまま従うのは無理だから、せめてこれに向かって一生懸命やっていれば、神様は必ずそれを評価してくださると自分勝手に考える。でも、聖書にはそう書いてありません。しなさいと言っている。
聖書が言っているということは、神様がそうおっしゃっているということなのです。神様の言うことに従わなければ失敗するのは当然です。
牧師であろうがなかろうが関係ない、従う人が大きな祝福を受けるのです。主のおっしゃることに従えば、必ず主が祝福してくださる。これが岩の上に家を建てるということです。
聖書は誤りなき神のことばであることを信じなければなりません。あるリベラルの人に聖書をそのまま信じる人は無知蒙昧だからと言われたことがあります。でも無知蒙昧なのではない、その前提が違うのです。聖書を誤りなき神の言葉と信じるか信じないか、認識論の問題です。
前提というのは証明することができません。たとえば数学の有理数や無理数、その存在を証明することはできません。でもその有理数、無理数があるという前提に立って数学が成り立つのです。証明できない前提は非科学的であるというなら、数学すら非科学的ということになります。こんな矛盾はありません。
どんな思想であっても前提がある。前提が正しいかどうかは、その前提に立った結果が正しいか正しくないかによって分かるのです。
聖書信仰を無知蒙昧であるという人がいたら、かわいそうにそういう人は認識論のことに無知なのだなあと思ったらいいのです。
聖書を誤りなき神の言葉と信じるのは、イエス様がそうだったからです。ですから我々は心配しないでイエス様についていけば良いのです。
そうすれば必ず問題は解決され、大きな祝福を受けるのです。
御言葉を行わない人はいつでも不安です。神の言葉、神様こそが我々の問題の解決と考えてください。
そして自分の事を一番よく知っているのは自分ではなく、神様であることを知りましょう。
ペテロはイエス様が捕まったとき、逃げてしまい、三度もイエス様を拒んでしまうのです。そんなペテロがどうしてイエス様に捨てられなかったのでしょう。それはイエス様が、ペテロの信仰がなくならないように祈ってくださったからです。
イエス様はペテロだけではなく、私達すべてのために祈ってくださるのです。どうして私たちがあきらめていいでしょう。イエス様が私たちを支えてくださっている。そのイエス様を信じて生きていくとき、主は素晴らしい祝福を与えてくださいます。
今、クリスチャンにとって最も大切なことは愛し合うことです。人々に難しいキリスト教の教理を教えても分かりません。でも私達が愛し合っている姿を見て、自分もその仲間に入りたいと思うのです。
イエス様はどんなひどい目にあっても、決して仕返しをしませんでした。それは正しく裁かれる方、父なる神様に裁きを委ねられているからです。もしあなたにどうしても赦すことが出来ない人がいるなら、それを神様に祈るのです。神様が赦させてくださいます。
神様の祝福を退けてはなりません。御言葉を信じることができなければ祝福はありません。御言葉を憶えているだけではなく、自分の生活に取り入れなければなりません。御言葉という岩の上に信仰の土台を据えて、御言葉を行う人となりましょう。



Posted by ORC at 12:50